「拝啓、先生」 ~伏見士郎さん(一般教育 体育)〜
私は昭和38年10月~平成11年3月の35年間、体育教員として勤務いたしました。生家は東日本大震災で事故があった福島第一原発から12Kmの、東電(原発)ができる前は企業立地が全くない、陸の孤島といわれた相馬郡福浦村角部内(現南相馬市)です。中学時代は獣医師が夢でしたが、高校で進路を変更、日本体育大学(陸上競技部に所属)へ、卒業後仙台育英高校(2年間勤務)、東北薬科大学(5年6ヶ月)勤務中(昭和38年1月)に大学の同期で工学部に勤務の吉村恒雄先生のお誘いで、工学部へ奉職したわけです。
当時体育施設は室内に粗末なバレー・バスケットのコート2面だけで、グラウンドも体育館もない環境でエンジニアを目指す学生に、スポーツの健康との相関関係・必要性・楽しさをどう伝えるか苦労しました。昭和40年代を迎え施設が整備され始めクラブ活動も盛んになりました。陸上競技部へ力を注ぎ、地区大会等で多数の優勝者も輩出できたことは一生涯の宝です。
対して大学紛争(昭和43年7月封鎖・44年2月封鎖排除)での8ヶ月の空白は悲しい不幸な意味で、生涯忘れられません。昭和44年11月、体育館が完成、活動範囲も拡大し多くの大会で高成績を上げ、スポーツ活動復活と繁栄期の一途を迎えました。退職後、体育人生の集大成としてゴルフを選びました。年間20~30回のプレーを楽しみながら現役時代にあまり経験がなかった「人の出会いの大切さと繋がり」の重要性を感じつつ、工学部の発展を見守って行きたいと思います。卒業生の皆様も健康に留意され、出会いを大切に!
蓬田和夫元工学部長と