「北桜祭の思い出」
母校を訪れるのは10年ぶりです。駐車場から校内に入ると『学校もだいぶ変わったなぁー』と、出る言葉は10年前と同じです。今年の北桜祭はあいにくの雨、そんな中で校内道路のあちこちで案内してくれる学生が雨の中に立って声を掛けてくれました。彼らの仕事は地味な仕事ですが、そのお陰で迷わず進むことができました。薄い雨具1枚で立っている姿は、本当にご苦労様でした。
私は昭和48年から52年まで土木工学科でお世話になりました。4回の北桜祭の中でも1年生の時は“豪華”と“派手”ぶりに驚きの連続でした。先輩の方々がなぜか大人に見えるのは、自分たちの研究発表に自信と誇りを持っているからと見上げました。私たちの時代の北桜祭は各部や同好会がすべて発表の場を持っていました。その準備は数か月前から続き、その時の団結は10年ぶりに「母校を訪ねる会」で会う旧友たちとの友情の証です。私たちの頃の北桜祭の発表展示の写真を友人からいただいたものがありますので、一部を紹介いたします。
【その友人の紹介】
彼は山形県西村山郡の出身。お互いにプチ貧乏しながら励まし助け合って学生生活を謳歌しました。彼は相当な勉強家であり努力家で、バイトの金はすべて教材につぎ込んでいました。2年生の夏休み、彼は歩いて山形の実家まで帰りました。学生時代はつい彼女もなく過ごしましたが、卒業後にそれはそれは美人で優しい奥様と一緒になりました。彼はエベレストにも登る強者ですが、身寄りのない猫を見つけては自宅で飼う人情(猫情)に熱い人です。今年8月に久しぶりに会って、酒を飲み交しながら大学時代の貧乏話に花が咲きました。
写真を見られた瞬間に『いかにも70年代だなぁー』と、想像されたことでしょう。“学生服に白衣”あの頃の衣装の象徴です。全体の雰囲気も何となく地味なんですよね。老けているというか・・・?研究発表で作った関門橋はかなり精巧で、当時の長大橋梁の技術を再現しました。この技術が後の本四連絡橋へとつながっていきました。
トラス橋の歪測定は橋梁研究室の伝統的な課題でした。私たちは卒業研究でこの仕組みを論じました。研究成果の説明は張り紙にビッシリ埋めていました。各実験装置も本格的なものでした。見学者には自慢話のごとく「理論整然」と、語りました。他研究室で製作したダムのジオラマは怪獣映画のミニチュアのように精巧に作られていました。
写真はありませんが、建築学科の未来住宅や未来都市構想は、現代の「駅前開発」に見られる商業施設と人のたたずむ空間のバランスが想像されていました。数十年後に現実になる未来都市の創造は、コンピューターなどなかった時代に鉛筆と定規と計算尺で作り出す施設と空間の出来栄えで、学科の違う私が見ても「工学部の誇り」とさえ感じられました。